「誇り」を持った子どもに育てるためにはどうしたらよいか、を考え始めた

子どもに「誇り」を持ってもらうためにはどうしたらよいか。子育ての中で、もっと「誇り」というものを考えてもいいんじゃないか、と思うようになりました。

きっかけは、このブログ。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 目次の「きょうのダーリン」(2012/9/16)

「きょうのダーリン」はバックナンバーが掲載されていないので、Evernoteにクリップしておいたものから一部引用します。(全文は本記事の最後を参照)

「誇り」というもののことを、よく考えるようになった。「名誉に感じること」というのは、たしかにそうかもしれないのだけれど、もっと「高さ」と関係ないところに、ほんとうの「誇り」というのがあるように思う。
 「自慢」とも「優越」とも関係なく、もっとなんでもないけれど、とても大事なもの。誰でも持っていておかしくないし、まったく持ってなかったら生きて行けないようなもの。つまりは、どの人間も、持っているもの。



辞書で「誇り」を調べると、ほこること。名誉に思うこと。と書いてありますが、こういった意味とは少し違う、上記の引用にも書いたような「誇り」が、確かにあるのだと思います。


自分が自分であるための誇り、といったらいいんでしょうか。

例えば、

辛いことがあったとして、ここで怠けたらいけないという気持ち、とか、

誰も見てないからいいや、という気持ちに打ち勝つ、誰も見てないけど自分が見てるといった気持ち、とか、

友達に悪事を誘われたとして、ここで誘いにのってはいけないという抑止的な気持ち、とか、

こういったことは、社会的なルールとか、人に言われたからとか、そういうことではないんだと思います。

自分の中の価値観、ルール、アイデンティティ、生き方、そういったキーワードが思いつきますが、そういったものと少し違った「誇り」というものも確かにあるんだと思います。


子どもに社会的なルールを教えるのは、親の役目だと思いますが、それとは別次元の「誇り」というものをどうしたら、子どもが持つことができるか。

子育て関係の本では、見かけたことがない視点なので、、少しじっくり考えてみたいなと思い始めました。


▼ほぼ日刊イトイ新聞 - 目次の「きょうのダーリン」(2012/9/16)の全文を転用

「誇り」というもののことを、よく考えるようになった。「名誉に感じること」というのは、たしかにそうかもしれないのだけれど、もっと「高さ」と関係ないところに、ほんとうの「誇り」というのがあるように思う。「自慢」とも「優越」とも関係なく、もっとなんでもないけれど、とても大事なもの。誰でも持っていておかしくないし、まったく持ってなかったら生きて行けないようなもの。
つまりは、どの人間も、持っているもの。犬だとか、馬だとか、猫だとかにでも、それはあるような気がする、そういうもの。一寸の虫にも五分の魂というけれど、虫にでさえかあるかもしれないと思えるようなもの。それほど立派なことだと考えすぎないほうがよさそう。
 シャンプーできない日が続くだけでも、「誇り」はしだいに弱々しくなっていく。人に親切にされるのはいいけれど、親切にされてばかりで、親切にすることができないときに、「誇り」は眠らされて、元気がなくなったりする。「ありがとう」って、一回言われるだけでも、「誇り」は栄養をもらったようになる。
 わたしは「いてもいいんだ」という肯定感。
 わたしは「いたほうがいいんだ」という歓び。
 それは、じぶんひとりでは確かめにくいものだ。
 「いてもいいよ」「いたほうがいいよ」という、
 声や視線が、「誇り」を育ててくれるかもしれない。
 懸命に勉強をして、じぶんが「いてもいい」ことを、なんとかじぶんで探しだすことも、ありそうだけれど、ひとりでやるより、誰かに手伝ってもらったほうがいい。
 あなたから「誇り」を奪い取ってしまおうとするのは、実は「誇り」を持てないで苦しんでいる人間だろう。
「誇り」をなくさないでいる人は、他の人の「誇り」を奪ったら、じぶんの「誇り」が失われることを知っている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
目黒の「さんま祭」の日ですね。テキスト中継もあります。
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