話し合って決めるのは幻想?だからこそわかりあえたときはその奇跡に感謝しよう

社会人になって、13年経ちますが、ずっと信じていました。
同僚など同じ分野で仕事をする人間であれば、多少意見が食い違っても、何度も何度も話し合えば理解しあえると思っていました。

実際、意見が食い違えば、何度も何度も話し合いをして、理解しあってきたつもりでした。

ただ、それは傲慢な考えだということをこのブログ(「話し合って決める」という幻想 - Chikirinの日記)を読んで気づきました。
少し長いですが、引用します



世の中のすべての人の意見が「一致する」などということは起こりえません。いくら話し合い、議論しても、結果としてみんなの意見が一致した、などということは、ほぼないんです。

起こりうるのは「一部の人に、自分の意見を放棄させる」ということだけです。話し合って合意に達したように見える状況を思い浮かべて下さい。

そこで起こったことは、「議論を通して、全員が同じことを信じるようになった」ということではありません。一部の人が「まあいいや、お前の判断に従おう」と考えたから合意に至ったのです。「今回はそっちの方法でやってみようと思った」というだけです。

一緒に会社を経営しているとか、夫婦が子供にお受験をさせるかどうかを決めるとか、「合意に達する必要がある時」はよくあります。そういう時は、皆、議論をします。

こういった議論の目的は「話し合っている人達の意見を同じにする」ことではなく、「どちらかに、自分の意見を放棄させる」ことです。

「話し合って決める」ということは、そういうことなんです。

議論したら、心からわかり合え、みんなが全員、同じことを信じるようになる、なんてことではありません。そんなの幻想です。

だから民主主義というのは、最後は「多数決」なのです。いろんな意見を、みんなバラバラに主張し、最後にどうするかは選挙で決めます。「数が少ない人が自分の意見を通すことを諦める」というルールが民主主義です。

ただし、知識と思考は違います。知識は、どちらかが完全に思い違いをしている可能性があるので、正しい知識が目の前に運ばれれば、双方の意見は一致するでしょう。私が上で言っているのは、知識ではなく思考の話です。人の「考え」は、少々議論したくらいで同じになったりはしないのです。

(中略)

多様性を尊重したいからこそ、議論しないのです。

(中略)

「話し合って決める」というのは、お花畑的幻想です。

「話し合えば、相手も自分の意見と同じになるはず」などと思うのは、傲慢です。

話し合って決まるのは、「今回はどっちが意見を放棄しましょうか?」ということだけです。

順番に譲り合ってもいいし、多数決で決めてもいい。決める人が責任を負う、ということでもいいと思います。

「話し合って決める」という幻想を押しつけることは、「多様性の否定」につながります。合意されたひとつの意見以外を排除する思想は危険です。「ひとつの意見だけが正しく、後は間違っている」と考えるのは恐ろしいことです。


ただ、こうも思います。
話し合って決めることが幻想だからこそ、話し合うことで、本当にわかりあえたときは、その奇跡を大切にしようと。話し合った相手に感謝しようと。
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